wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

後藤乾一『「沖縄核密約」を背負って 若泉敬の生涯』

先述の通り、通史関連の講義科目で近現代公文書管理論をテーマとし、その一例として核密約問題を題材とした。全体の骨子はかなり前に作成したものだが、新文献などにより増補・改訂を行ってきた。本年度はとりわけ政府による調査が行われたこともあって追加情報を整理していたところ、核密約調印の当事者である若泉敬の伝記である同書の評判をいくつかのブログなどで見たため、購入して今週の電車の中で読了(正確には10頁ほど残ったが、しばらくは引きこもり状態が続くため自宅で読み終えておく)http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/4/0224030.html。戦前来のエスタブリッシュメントではない出自でもなく、1930年生まれで敗戦での大転換を経験して「平和主義」に傾いたにも関わらず、郷土の英雄橋本左内への傾倒からか、東大でもマルクス主義に走らず、右派学生の代表として活躍。それによりマスコミ・政治家の後援をうけ、保安庁保安研修所(のちの防衛研修所)に就職して、英米に留学してトインビー・ロストウ・キッシンジャーらの知己を得て、そのコネクションを活かして佐藤首相の密使として活躍。1994年に密約を認めた『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を公刊。晩年は何度も沖縄への戦没者慰霊の旅を続け、最後は家族との縁まで絶ち「自裁」した人生がつづられる。本人の伝記としては詳細で興味深いのだが、どうも本人の立ち位置がよくわからない。60年安保でも核密約が結ばれていたはずだが、沖縄返還交渉ではそれはどういう扱いになっていたのか。また西山太吉『沖縄密約』では佐藤の交渉で複数のルートが連関なく利用されたとするが、若泉本人はどこまで把握していたのか、それが明確にならないと彼がどれほどの役割を果たしたのかは評価できないだろう。なお若泉が著者に密約書刊行の手伝いを要請したのは1989年9月とのことだが、この年の1月に昭和天皇が死去しておりそれが大きなきっかけになっているのではないか。佐藤は密約締結の前に天皇に「内奏」しているようだし、若泉と天皇との関係も気になるところ。そもそも日米同盟・戦後体制の評価は、戦争の評価と不可分であり、若泉は天皇尊崇の余りそれを払拭できないまま、佐藤のコマにされたに過ぎないように思われる。