wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

橋本市石造物巡り

正月恒例の腹ごなしを兼ねた史跡巡りということで、2日に橋本市教育委員会HPhttp://www.chw.jp/guide/kyoikuiinkai/bunka_sports/bunka/index.htmlで確認していた中世石造物巡りに出かける。南海高野線学文路駅で下車し、紀ノ川を渡って神野々墓地へ行くつもりが道を間違え、しかもようやくたどり着いたと思ったら「墓地」ではなく「緑地」の見間違いという大ミス。何とか気を取り直して、30分ほど歩き、和歌山線高野口駅前の地蔵寺に現存する正平11年の年紀を有する五輪塔にたどり着く(左)。2メートルの優品でなかなかの迫力が感じられる。高野口駅前には高野参詣でにぎわった旅館葛城館の近代建築も見ることができる。そこから大和街道を東に向かい、ようやく神野々地区に戻って山側を見ていると、偶然にも墓石群を発見.。ひたすら上っていくと堂(六郷極楽寺)の左右に小ぶりな五輪塔があり、ようやく目的を果たす(中央)。これも正平の紀年銘があり、やや欠けていたのが残念だが、なかなかのもの。もとの場所からは移動しているだろうが、墓石群に関わるものだと思われ、左手から西日がかかる好立地。最初の神野々緑地からは2キロ以上北に当たるが、この地域ではかつての荘園がそうであったように、偶然ながら、村も紀ノ川北岸から和泉山地にかかるぐらいまで南北に細長い領域を有していたことが体感できた。河川漁業から里山薪炭採取までの資源を確保することで、自己完結的な村が存立できたものだろう。そのなかで北側の山にある墓地も特別な意味を有していたことが想像できる。なお六郷は神野々の小村をまとめた時の表現だと考えられ、荘園・村・小村という重層構造になっていたと思われる(以上の部分は、しっかり調べたわけではなく、当方の単なる感想)。そこから山を下り再び大和街道を東に向かい、相賀大神社へ。名前の通り中世相賀荘の総鎮守で、正平10年の年紀を有する石灯籠が目的。社殿の中なのだが宮司さんのご厚意で中への立ち入りを許可していただき、紀年銘をはっきりと確認することができた(右)。初詣客がいらっしゃるにも関わらずありがたいこと。なお境内には梵鐘が残り、説明版によると元禄の鋳造で一度は戦時供出されたものの、利用されず戻されたとのことで、貴重な戦争遺物になっている。日差しで汗をかいたが有意義な時間となった。続く3日は図書館に出かけたが、明らかに手持無沙汰の老年の男性を4.5人は見かけ、いろいろ感じるところ。近世の村絵図を発見したのだが、図版が小さすてコピーは断念。
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なお本日は月曜5限の12回目。無理に来なくてもよいといっておいたため、出席者は2名のみで、辞書を引かせながら100字ほど古文書を読む。ただ図書館すら閉館で、スケジュールには無理がありすぎ。