wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

富田啓介『里山の「人の気配」を追って』

本日は大教室授業と古文書学、20:00帰宅すぎに魚を焼き、みそ汁を暖めるだけにセッティングをしておくのだが、やはり慌ただしい。受講者のカード・チェックなど余計な仕事を作っていることもあるのだが、何やかやで収入の割には結構バタバタしてしまっている。そんな中でまたもや余計な電車読書の備忘、夏に書店で衝動買いしてしまったものhttp://kadensha.net/books/2015/201507satoyama.html。1980年生まれで私立大学助教(おそらく任期制?)の著者が書き下ろしたものだが(D論は未公刊のよう)、5章立てのうち概説部分は第2章のみで、後は著者の個人的経験に引き付けたもの。植物に興味を持っていた知多半島にすむ中学生の著者が『なごや野の花』という写真集に衝撃を受けて、身近な植物探しをするようになり、湿地の保全活動や自然保護の指導員をしている遠縁の人に手ほどきを受け、高校生のころから自然観察のガイドを務めるとともに、自然科学の勉強会に参加しそこで紹介された老人から聞き取りまでしていたという(高度経済成長以前の状況という点では、この段階で聞き取りができたのは非常に重要)。そのまま名古屋大学に進学すると、歴史地理学教室で古地図・古文書の扱い方、地形の読み取り方を学ぶとともに、植生学を身につけ、コアを採取して炭素年代の測定までするという、里山の歩みについてのいわゆる「一人学際的研究」を実践してきたという。そのなかで著者が注目するのが湧水湿地という丘陵における地滑りの結果や谷奥にできる空間で、周辺の里山利用による蒸発散量の減少、湿地内の採草など人との関わりの中で存続と消滅を繰り返す、微妙な生態系バランスを有していたという。また知多半島という慢性的な水不足の地に営まれた時には個人所有の小ため池が(多く持っているのはそれだけ条件の悪い田を抱えているからで、必ずしも豊かな百姓とは言えないという)、生態系のなかで果たしていた役割、また池さらえによる魚取りなどの多面的機能をもっていたという。里山本体というよりその周辺にある気づきにくい空間で(いわゆる「水辺」論に近い)、しかもここ20年来で急速になくなりつつあるものが、フットワークと多面的な研究ではじめて明らかにできたものだろう。文書にはほとんど現れない世界だが、民衆生活史を考えるうえでは踏まえておかなければならない事項の一つ。