wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

「河音史学の方法についてー畿内社会への視点から出発してー」

『歴史科学』(大阪歴史科学協議会)216号(2014年6月)19~26頁、本日手元に到着。もともと依頼により大阪歴史科学協議会2011年12月例会で報告し、2012年8月に原稿提出。本文にも記したように当方は河音の教えを受けており報告者としては適任とは思えず乗り気ではなかったのだが、例会でのもう一人の報告者が大山喬平氏に決定してから依頼があったため、断るという選択肢がなく引き受けたもの。どういう視角にしようかと思ったが、河音のみ初期の論文から「畿内近国」という用語が意識的に用いられていることを手がかりにその後の展開をまとめてみた(大山氏の反応はもう一つだったが・・・)。原稿執筆についても二人セットでの依頼ということで引き受けざるを得なかったが、大山氏は結局は執筆を断念されたとのこと。その時点で引き下げるという選択肢も考えたのだが、某氏からのたっての要望もあり刊行されることになった。ただ余りにも恥ずかしい内容なので抜刷を希望しておらず、関係者にもお送りしません。悪しからずご了承ください。もしどうしても必要だという方がおられましたら、雑誌10冊が手元にありますのでお送りすることは可能ですので、ご連絡ください。なお一言だけ付け加えると、最近の中世史研究についての石母田→網野→それ以後、という整理は、戦後知の軽視・東京の一人勝ち・関西の地盤沈下という現状を反映しているとはいえ、余りにもひどすぎる。60・70年代は明らかに黒田・戸田・大山・河音の時代だった。