wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

宮本常一『山に生きる人びと』

本日で後期の授業もワン・クール。全9コマのうち、月曜3コマ・火曜3コマで完全にノドは潰れてしまい、本日は午前1コマを終え図書館への寄り道(確認していたものが貸し出されていて大失敗)を経て、80分待ち1分診察で薬をもらってくる。後期は通史の近現代・人類の歴史という「専門外」に頭を切り換えなければならないだけでなく、通年授業4コマのうち、2大学2コマで受講者が少なからず入れ替わるという問題を抱えてしまった。何れも人数は減少したため楽になる部分はあるとはいえ、前期の講義に対する評判の悪さを反映したものとして気分はよくなく(アンケートより如実)、進め方もややこしくなる。そんなこんなで電車読書だけが少しすすみ、たまたま新本屋で見かけたまとめて購入したものの一冊http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309411156/。著者がすごい人だという感覚は今でも揺るがないが、本書には失望させられた。個別に紹介されている事実は勉強になるものもあったが、貧しい山村という近代主義的な先入観、自給的・牧歌的な山民イメージを前提に置いた権力・流通への接触論、近世に非人集落があった場所に住む人びとをサンカとする見方への無批判な認識、縄文以来の狩猟民のエネルギーと近世権力による去勢化という網野善彦的図式(影響関係は逆なのだが)など、全体的に非常に違和感を感じるところ。その要因は解説(赤坂憲雄)が肯定的に評価する飛行機から見た「畑と田の間は傾斜が急であるか森林になっていて」断絶しているという認識にあるようだが、これは里山景観が拡大造林で破壊された結果で、それを歴史に遡らせたことでゆがみを生じさせているのではないか。著者がすぐれたフィールド・ワーカーであったことは間違いないだろうが、あくまでも一過性の「旅人」にすぎず、しかも文献を渉猟することで逆に著者の鋳型にはめ込んで叙述された側面も考慮されるべきだろう。山村の人びとが旅人に語る説明が相手に合わせたものになりがちなことは指摘されているし、四国山地を初めとする焼畑の拡大は中世における木材皆伐の後の土地の有効利用(商品作物が含まれていることが前提)とみるべきではないだろうか。後者は何れちゃんとやりたいところだが・・・。