wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

松本三和夫『科学社会学の理論』

本日は某シンポジウムの打ち合わせ。居並ぶ専門家の中にやっつけ仕事の身で末席を汚すことになったため、ついて行くだけで精一杯だったが、せっかく与えられた機会なので勉強させていただく。そんなこんなで木曜以外は出かけることになり、東京・吹田・枚方・上郡・姫路・西宮を連れ回した表題書を読了。2月に積ん読在庫がなくなった際に衝動買いしておきながら、後回しにしていたものhttp://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062923569。当方の頭ではなかなか理解できないところもあったが、現代の巨大化した科学技術を、善行一本やり・不利益をもたらすものという両極端の決めつけではなく、社会的な営みとして記述することで、客観的に評価しようとする学問らしい。すなわち毒ガス・原爆など大量殺傷兵器開発に典型的なともすれば「科学の暴走」といわれる事態を、行政・学術体制・科学者個々人の志向などから客観的に組み立てることで、どこにどのような問題があったのかをみる。具体的には1980年代に新エネルギーとして日本政府によって巨大な費用が投下されたサンシャイン計画について、すでにオゾン層破壊の要因として指摘されていたフロンガスを利用した特許や、海洋での台風や海難事故などのリスクについて、充分に検討されることなく進められていったこと。TMI原発事故発生時点ですでに指摘されていたリスクについての研究が原子力推進主体側に著しく欠けていること、その中で高木仁三郎の研究が事故の推移を正確に予測した原子力推進主体と受容主体をバランスよく扱うものであったが、先行研究・関連資料の吟味に不完全な部分があったことが述べられるとともに、戦後日本の原子力研究・開発に官産主導・学状況依存の基本枠組みを批判的に検討する回路が組み込まれていないことが指摘される。戦後日本の科学技術体制が過誤のリスクを組み込まず、方向転換できなくなっているということを1998年の原著で客観的な記述で指摘している点はさすが。ただここでいい加減にまとめた要約とは異なり、断定的言葉を避けているため読んでいていらつくこともあった(やはり当方は研究者失格かも)。また日本のエネルギー推進主体と受容主体の関係の研究が水力に偏っていたことが批判されるが、巨大ダム建設による村の水没は切実な問題であり、単なるエネルギー比率だけで捉えるのはどうかとも思う。とはいえ本書が現実社会で顧みられることはなく2011年を迎え、その後も日本社会の暴走は加速している。今度の参議院選挙が歯止めの一歩になることを願うばかり。