wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

高井としを『わたしの「女工哀史」』

本日ようやく最後の試験180名ほど。昨日までで完全に仕上がっているはずの答案も積み残されており、成績付けから解放されるにはまだまだかかりそう。相変わらず夜の眠りは浅く、ほとんどの時間はクーラー対策で鞄を抱えて寝ていたのだが、ようやく読了。以前に書店を物色した際に、関西の地名を見かけたこともあって衝動買いしたものhttp://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-381161。岐阜の揖斐川上流の炭焼きの子として生まれ、父の出稼ぎ先の静岡で少しばかり小学校に通い(いじめなどによる不登校もあったようだが、姉の教科書を独学で読んだりもしていたらしい)、12歳(満10歳5か月)で大垣で女工になる。その後は奈良・岐阜・名古屋を転々として、吉野作造の論文(特定は不可能ということ)に感激して東京へ。亀戸で労働運動に加わり、細井和喜蔵に出会い女工・女給としてその生活を支えながら、『女工哀史』の事実上の共作者となる。しかし和喜蔵は病に倒れ、ベストセラーとなった『女工哀史』の印税の受給者からも内縁の妻と「乱行」を理由に排除。しかも細井未亡人として女工としても生活できず大阪へ。そこで東京時代に知り合った労働運動家高井信太郎と再会し、賀川豊彦の媒酌で結婚。何度も検挙された信太郎を支えながら7人の子供を育てるも(うち2人は早逝)、西宮空襲で焼け出され夫はその時の火傷が原因で46年正月に死去し、ヤミ商人として何とか食いつなぐ。51年からは伊丹市の失対事業で働き(次女はレッドパージ)、全日本自由労働組合傘下の伊丹自由労働組合委員長として1971年まで第一線で活動。その後に大垣の「現代女性史研究会」に「再発見」され、聞き書きなどが刊行されるようになり、中村政則『労働者と農民』でも取り上げられる(全く記憶から飛んでいた)。本書の底本は1980年出版ということ。山村生活から女工、戦前の労働運動から戦後の失対運動・母親運動というそのライフ・ヒストリーは大変興味深い。とりわけ戦前・戦中の聞き書きに対して、戦後は自らの日記などに基づく語りであり、失対運動の生々しい感情が描かれている。先日、その隣町の高校の歴史研究会による諸論文のすさまじさを知ったが、同じ時代の地域の空気を伝えるものとして重要。その一方で学ぶべきなのが、同じ運動に携わる人々への豊かな愛情で、朝鮮出身者・男女差など関係なく、一人ひとりの人間として描かれており、当方も地に足のついた人間でいたいと思う。