wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

九度山史跡巡り

恒例の腹ごなしのための新春史跡巡り。2日は粉雪が舞っていたため近場に止めたところ、たまたま開館していた市立図書館に行き着き、金剛寺関係などの調べ物。3日は電車で九度山駅へ(降りるのは中学校以来か?)。まずは真田庵へ。真田昌幸・幸村の隠棲地として知られるが、旧宅を善名称院という寺院にしたのは寛保元年(1741)僧大安の手によるものということで、展示されているのもその時の院号宣下の文書が確実なもの(幸村の書状が2点あったが、何れも内容は直接関わらないコレクション)。100年以上旧宅が放置されていたというのも解せない話しでどこまで確実なのだろうか。解せないといえば今年が豊臣大坂城落城400年にも関わらず、大河ドラマ真田丸」が来年ということ。今年のものは女性をターゲットに国防を強調しているらしく、世界遺産登録と同じくその筋からの割り込みだとしたら・・・(以下「特定秘密」)。続いて高野政所だった慈尊院に。ここは18年ほど前に後輩の送別旅行で訪れて以来だと思うが、1m級の五輪塔やそれ以上の規模の頭頂部が転がっていたことは全く記憶から飛んでいた。今年は高野山開創1200年ということで町石道の起点でもあるここも賑わっているかと思ったが、初詣客がちらほらというところ。慈尊院から石段を登ると茅の輪くぐりの赤鳥居があり、丹生官省符神社に到着。名称の由来は高野山の根本所領である官省符荘だが、中世には神通寺七社明神と呼称されていた。現社殿は天文10年(1541)の棟札が残るということだが、そのまま境内を横切り空海彫刻の由緒をもつ勝利寺へ。ただし地名事典では中世の叙述はとくになく建物も近世のもの。そこからは町石道を少しのぼる。もともとの予定では166町の雨引山展望台までのぼる予定だったが、誰もいない坂道で急速に疲れてしまい170町で断念(体力の衰えを感じるところ・・・)。柿畑を貫通する広域農道を歩いて九度山駅へ戻る。帰りの南海の広告で丹生比都売神社(中世天野社)までの無料送迎バスが出ていたことに気づき、少し後悔も残るがいろいろ勉強にはなった。写真左が慈尊院山門。多宝塔左に石段がありその途中に町石道起点の百八十町が立つ。写真右が山門を入った左手に並ぶ五輪塔二基のうち右側。
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