wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

河内将芳『宿所の変遷からみる信長と京都』

本日で本年の非常勤は終了(まだ木・金の姫路が残っているが・・・)。そんな中で表題書を読了https://www.tankosha.co.jp/ec/products/detail.php?product_id=2300。近年急速に研究が進展している信長の居所論を改めて史料を再検討し、義昭在京時を「武家御用」の時代、追放後を「禁中守護」の時代と区分して信長と京都の関係を論じたもの。浮かび上がってくるのは、信長は京都で正月儀礼を行ったことはなく義昭御所・禁裏への利便性を重視した寄宿が一般的で、右大将任官後に設けられた「二条殿御屋敷」も三年足らずで手放してしまい、末期の本能寺もその一角に「御屋敷」が構えられた程度で、わずか三日の在京時に明智光秀によって襲撃されることになったという。この京都との距離の置き方について著者は、信長が「畿内文化」を身につけていたことによるある種の「遠慮」(括弧は大村、著者の微妙な表現)と、公家社会の儀礼作法・飲酒慣行になじめないため(著者自身が「酒をたしなまない」ことを明言されている。なお余談ながら著者とは研究会の二次会にも何度もお付き合いいただいており、信長と違って人格者である)に求めており、慎重な著者としてはかなり踏み込んだようにみえる。当方はその当否を判断する能力はもたないが興味深い指摘。なお初期の寄宿先である半井驢庵亭が来客に対応できるほどの邸宅であったことは驚き、また滅亡した武田氏の首が下御霊に懸けられた後に「播州へ遣わるべし」の解釈が人名ではなく地名とされていることの具体的内容が気になるところ。