wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

高木久志『戦国日本の生態系 庶民の生存戦略を復元する』

昨日は史跡で力尽き、本日は新スマホの調整に手間取ったため、遅ればせながら電車読書の備忘。貨幣史の研究者として認識していた著書による生業史の著作で、これは読んでおかなければと購入していたもの。著者が福井県学芸員として勤務していたときに発表していたものをもとにしたということのようだが、具体的な刊行の経緯は編集者との関わりも含めて一切記されていない。近年の生業史の成果の上にたった初めての概説書として一定の水準に達していると評価できるが、違和感も少なくない。最大のものとしては近年の生業史が文献史料の限界に自覚的で近代の状況を把握した上で中世の文献を読み解いていくのに対し、文献でここまで読めるというのを強調してから(実際は中世史研究者なら普通に行う史料批判)、必要に応じて近代に触れている。そこには叙述のスタイルに留まらない方法論上の問題が感じられるところ。また著者より下の世代の研究者の通例になってしまっているが、20世紀の第3四半期ごろまでの研究を、庶民と行政権力の関係を一方的に搾取・抑圧と決めつけるのも、1970年代の地主・加地子名主職をめぐる議論を鑑みても余りにも一面的。著者が庶民とするなかにも中間層は少なくなく、村・共同体などを一切用いず権力と庶民の依存などというのはむしろ先祖返りで、意識的に「生存戦略」(植物ではない)が採れたのも個々の庶民とはいえないだろう。さらに「学校教科書における一般的な定義」を何度も使用し、それと自らを対置させようとするのもアカデミズムの中の一員としてはいかがなものかと思う。細かい内容でいうと動植物名をカタカナで表記するのは一般的だと思うが、なぜシオだけ「食塩」などという工業的生産になってからの用語を使用するのかわからない(塩が食用以外でも用いられていたことを著者が知らないわけはないだろう)。なお著者は最初に越前の「ハま」出身の京都で「はくや」を営む「久三郎」という個人を取りあげ、箔もしくは馬具職人とするが、それなら「師=し」であって、「屋=や」は商人なのではないか。著者に乗っかるなら漆商売をしていて京都に出てきたというのが、もっとも自然だと思われるのだが(なおこういう通常の推論を「妄想」などという用語を使うのも疑問)。

『戦国日本の生態系 庶民の生存戦略を復元する』(高木 久史):講談社選書メチエ|講談社BOOK倶楽部