wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

倉沢愛子『インドネシア大虐殺』

週末は淡路出張。研究会・文書調査・現地見学と盛りだくさんだったが、公務につきここでは省略し、往復高速バスでの電車読書の備忘のみを記す。1965年から68年にかけて起こった表題の事件について、ちゃんとした知識を持っていなかったので後期の遠隔講義のこともあって購入していたもの。スカルノ体制下で政治的・経済的混乱に陥っていた65年9月30日に七人のトップクラスの陸軍将軍が襲撃され8人が殺害された事件がきっかけ。本書でも明確な真相は不明ながらインドネシア共産党PKI)の仕業と大々的に宣伝され(毛沢東の影響で武力闘争路線に傾斜していた一部幹部の行動がきっかけ?)、秩序回復のため陸軍司令官に任命されたスハルトのもと、少なくとも50万人、一説では200万人がPKI関係者として虐殺。それを止めようとしたスカルノも66年3.11政変でその座を追われることになったという顛末。この事件の暗澹としかいいようがないのは、①虐殺が軍のバックがあったとはいえ、現地住民が銃すら使わずきわめて身近な人びとを残虐に殺害したこと、なかでももっとも大きな割合の犠牲者を出したのがバリ島で、現在でも「道路の脇や風光明媚な海岸の一角に」大量の死体が埋まっているという。②英米さらに旧宗主国オランダなどは、反共の立場からスカルノの行動を歓迎し、虐殺も黙認したこと。③ソ連PKIが中国寄りに傾斜するのを好ましく思わず冷淡だったこと。④毛沢東はむしろPKI武装闘争路線に転換するきっかけになると考えており、弾圧は劉少奇に責任転嫁され文化大革命に突入していくことになる。あげくにインドネシアで敵視された華僑が中国に強制送還され、下放となるなどこれまた悲惨。亡命インドネシア人の中には日本赤軍と行動を共にするものもあったが、これもコマとして見捨てられたとしかいいようがない。⑤北ベトナムキューバ日本共産党(日本には反PKIのデヴィを通じたつながりという別側面もあった)などで虐殺を非難する声は上がったが、同時期のベトナム反戦の国際連帯と比べると余りにも小さかったこと。⑥1998年のスハルト体制崩壊によって、政治犯(タポル)は釈放され、偽名を使って生活していた関係者が名乗り出ることはできるようになったが、名誉回復の動きもつぶされ、一時は教科書に掲載されたがそれも回収され、風化しつつあること。⑦日本政府はスハルト体制にあっさり乗り換え・密着することで経済進出を実現したことまで、なんとも後味の悪い読後感。講義でも位置づけは困難でまさにエアー・ポケット・・・。

インドネシア大虐殺|新書|中央公論新社