wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

肥前旅行記その4(結)

引き続き3/4:8:25佐賀駅発、8:30伊賀屋駅着。イメージ 1徒歩で国史姉川城へ向かう。姉川城は南北朝期から戦国末まで文献史料で断片的に確認でき、土豪姉川氏が城主とされる。その実態がはっきりしているわけではないのだが、クリークを利用した城館遺跡ということで複数回にわたって発掘調査が実施され、14世紀から17世紀初頭までの遺跡の展開が明らかにされている。多数のクリークで区画された遺構配置図だけではなかなか想像できなかったのだが、現地でみるとまさに水に浮いた区画。極端なものになると田一枚が水域に囲まれて立地しており、家地も同様。先行研究では館を中心とした城下町化という流れで組み立てられているが、当方としてはクリークと田畠・家地の利用形態のほうにむしろ関心がある。一口にクリークといっても基幹水路とつながって流れているものから、複雑に入り込んで澱んだものまで多様。恐らく琵琶湖の内湖と同様で、排水で富栄養化した後者は肥料として利用されるなどの区分があったはず。水も海水と淡水が重層しているとのことなので、多様な漁労も展開していたことだろう。全く予備知識はなかったが非常に興味深い景観。イメージ 210:00前に佐賀駅まで荷物を取りに帰る一行と別れて一人佐賀に次ぐ町場である神埼まで歩くことにする。地図での感覚より距離があったが横田家クリーク公園を経て11:00
にようやく神埼櫛田宮に辿りつく。鳥居は前日の与賀神社などと同じく慶長年間に藩主夫人が寄進したもので、鷹島から続く太い柱の割に笠の部分が小さく高さも低い形式。神埼宿はもうすこしじっくり見たかったが12:00再集合の時間が迫っており電車で鳥栖駅に向かう。車窓からは吉野ヶ里遺跡が見え、佐賀平野からは一段高い立地がよく確認できた。鳥栖駅からは地元の方のご案内で国指定史跡勝尾城筑紫氏遺跡をめぐる。豊臣以前の石垣を有しており、山上の城郭山下の館、複数の支城群と巨大な空堀・惣構といった防御施設、山上につながる直線道と町屋などを駆け足でめぐる。まだまだ不明な部分も多く、何故にこの地に戦国九州の到達点ともいえる遺跡があるのかよくわからなかったがその迫力には圧倒される。16:35鳥栖駅発で博多に向かい、一行は格安飛行機・夜行バスな多様な交通手段に分かれ解散。当方はカードで変更不可の1万円の新幹線を予約、あとから考えればもう少し遅くしてラーメンでも食べていくべきだったが、20:00には新大阪着。昨秋の公募もあっさり落とされたので、今後関わることもないと思うが佐賀は中世史研究にとって非常に貴重なフィールドであることが確認できた。最後に連れて行ってくださった方々に御礼申し上げます。