wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

張競『中華料理の文化史』

今週はめっきり寒くなったが、京都方面への電車は観光客でいつもより1.5倍ぐらい混んでいた。ただし本日は前の乗客が途中駅で下車したため、奇跡的に座って寝ることができた。もっとも非常勤先に着くとリソグラフを使わずコピー機を独占する輩のため5分以上待たされ、すっかり帳尻は合ってしまった(この光景も今年度でおしまいなのだが・・・)。それでも電車読書は進み表題書を読了https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480430694/。1997年に刊行され今年文庫化され、古文献と料理書をもとに、孔子の時代から明清までの「中国」における料理の変遷をたどったもの。春秋戦国時代の手で食べる・大皿でなく銘々皿の使用、漢代に西域から粉食文化が伝来、魏晋南北朝期の羊の丸焼きなど遊牧文化の受容、隋唐期の遊牧民との融合による犬食文化の否定、宋代の淡泊な文人料理、五代の遊牧文化の影響で箸が横置きから縦置きに変化したこと、18世紀以後のフカヒレ・唐辛子の普及など、周辺世界の強い影響を受けながら食文化の変化が起こったことが示されており興味深かった。なお備忘として触発されて考えたことを記しておく。①一日~食。孔子は一日三食だったが庶民は二食とされ、日本史でもよくいわれるが「生産力の向上」による変化と理解してよいのだろうか。日本近世でも米を炊くのは一日一回(江戸は朝・大坂は昼)だとされ、そもそも村方では毎日米を炊くのかという問題がある。また果実をはじめとして野生種がその場で生食されるのは(昆虫も含めて)一般的だったろう。雪国の民俗事例で家に籠もって二食というのを読んだことはあるが、厳しい肉体労働では何らかの栄養補給が不可欠なはずだ。料理書だけでは庶民の食習慣を考えることは限界があり、そもそも「食」という定義についてはもう一度考え直す必要がある。②炒め物の普及について。南宋のころから炒め物が僅かに登場するとされ、淡泊な文人趣味と結びつけられるが、火力の問題が重要ではないか。現在でも飯ごう炊さんでは炒め物は困難で、燃料転換が起こらないとできないだろう。日本近世でも天ぷらはどうやって火力を確保していたのだろうか。料理史は食材調達(フカヒレは日本から輸入が重要)だけでなく、さまざまな可能性がある分野であることが改めて実感できた。壁掛け時計が壊れ買い換えることに、外出着を含めていろいろ老朽化しており、収入は減るのに出費だけはかさむ予感・・・。