wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

宮内泰介・藤村泰『かつお節と日本人』

本日午後も組合の委員会で外出したため電車読書が進み読了したものhttps://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1310/sin_k733.html。故鶴見良行の薫陶を受けたグループの研究会から始まった企画ということで、バナナ・エビ・エビⅡ・ヤシ(これのみ未読)の続編という位置づけが与えられている。戦国期に戦場の携行食として利用されていた鰹節だが(これは全く知らなかった)、近世の消費地はほぼ三都に限定されていた高級品だったこと。近世以来の産地間競争と明治期の殖産興行政策が合流し、日清・日露戦争での軍用食として普及していくこと。さらに漁船の動力化によって、焼津・女川・山川など新たな産地が登場すること。かつおを求めて沖縄・台湾へ南進し、第一次大戦後の南洋群島信託統治により南洋漁業が本格化すること。そのなかで一本釣りと餌釣りを兼ね、賃金も安い沖縄出身者が大きな比重を占めていたこと。戦時期に日本軍への船の徴用・米軍による空襲と船の撃沈・逃避行による餓死といった多大な犠牲を経て(なかには早くに捕虜収容所に入れられ「優雅」に暮らした人も居たようだが)南洋から撤退したこと。戦後も生産量は増加するも生産地の淘汰が進み、1970年代に焼津・山川・枕崎に収斂されること。同じ頃に削り節パックが考案され、折からの冷凍技術の発達に伴い脂がのらず色鮮やかな南洋産捕獲のため遠洋漁業が再開されること。「こく」ブームにより大手メーカーのめんつゆは、この20年でだし風味を3倍にする一方で、醤油が減らされ生産量が25%減少していること。戦前に沖縄島民が進出していた現インドネシア・ビトゥンは、戦後の空白期を経て80年代から華人系による生産が開始され2009年から日本メーカーが「インドネシアかつお節」と表示して販売するようになっていること(遠洋漁業ものは日本の加工地名を表示しているらしい)。現地での担い手の中には戦前の沖縄出身者を祖父として持つものもいること。かつお節生産には薪が不可欠なため、鹿児島には山師がいて周辺に里山景観が維持されていることなど、いろいろ勉強になった。なおかつお節ネットワークは社会や環境への負荷が小さく抑えられてきたと評価されているが、漁獲量はどうなのだろうか。戦後日本による輸出用缶詰のため乱獲されたまぐろの二の舞になっていないのか気になるところ。